木村の略歴です。
おそらく、本サイトの中では最もどうでもいいページです。
いかに、このページのアクセスが少ないか!を証明するために、木村のプロフィールを作りました
学生時代
中学時代:14~15歳
父の仕事の都合でアメリカで生活をすることになる。
ミシガン州・13マイル。現地校に行き、日本人ひとりで唖然とする。
当然、英語は話せない。さぁ、どうしたもんだ。
イケイケのアメリカン美女が多くテンションが上がったが、全然声がかけれず、テンションが下がった。

エリザベス、キム、モニカ、シェイナ・・・嗚呼
元々ローラー小僧だったので、ローラーブレードを始めてみた。町中を颯爽とローラーブレードで走っていたら有名人になった。それがキッカケでローラーホッケーを始める。新人ながらいい線を行っていた。とにかく相手の攻撃を交わすのが上手だった。
調子に乗っていたら、ヘビー級の中学生が登場して、そいつに当たって2メートルぐらい吹っ飛んだ。
「ハンガー!」か「おわー」と叫んでいたのか、それをネタに弄られる。
ローラーホッケーは危険なスポーツだと知る。
オハイオ州SaintMarysという町に住んでいた。
町のロゴがSMで、学校のシンボルがラフライダーだったから、なんてファンキーな町なんだ!と思った。
英語は話せない日々。再び居場所がない。仕方なく、不良グループに入る。
が、タバコを断ったのがきっかけで、そこでも仲間外れにされる。
とりあえず、テニスの王子様の影響でテニスを始めてみる。パワーヒットを推奨するコーチの意向に逆らい、ひたすらスライスでシコシコ攻めるスタイルで試合に勝ててシングルス3に抜擢。が、アメリカは季節性で、テニスができるのは春だけ。。。
テニス以外はスポーツをしていなかったので、陰キャ生活まっしぐら。
人種差別的なイジメあり。逆にネタにして、自分のポジションを作る。
大学時代:19~23歳
1年浪人して立教大学経済学部経営学科に入学。日本語がヘタクソな大学。
帰国子女枠で入学したため、英語以外では周りのレベルについていけないと悟る。
頭よくなりたい!欲求が生まれて、経営戦略論・組織論のゼミに入ることを決意。
面接があると知り、絶対に落ちる!と思っていたので、そのゼミの先輩に近づく。(ほぼナンパ)
色々と面接の手ほどきを受けて、面接には見事合格。
その後、その先輩からお誘いを受けて、付いていった。
ディベートサークルの勧誘だった。
しかも、そのディベートサークルは立ち上げ中で、副部長に任命。
大学生活は経営戦略論・組織論のゼミとディベートサークルの2足わらじに。
経営戦略論・経営組織論のゼミ編
学術的な経営学を徹底的に叩き込まれる。経営学の理論なんて実践では役に立たないでしょ!なんて揶揄されるけれど、半分正解、半分間違い。大人になってビジネス、マーケティング、コーチングのセミナーに参加をしたけれど、そのほとんどが大学の学部レベルの経営学の下位互換であることがわかる。
また、個人事業主になってから、まじめに経営学を学びたいと思った今日この頃。
誰か一緒にドラッカーやマイケルポーターのお話でもしない。
ディベートサークル編
地味な活動ながらも楽しかったし、いちばん勉強になった。そして、いまはキャッシュポイントの一つになっているから、ディベートには感謝してもしきれない。(本当に)
大学2年生からディベートを始めたけれど、大学1年生に負けっぱなしだった黒歴史あり。いまはディベートの講師をしているけれど、ディベート界隈での木村の実力は中の下ぐらい。いま高校生や大学生と本気でディベートの試合をしたら勝てる自信がない。でも、大学教授や実業家とディベートの試合をしたら、多分勝てる。ここがディベートの面白いところ。詳しくはディベート講座でお伝えしますね。
大学時代のアルバイト
- サパークラブ(時給1500円)
- テレアポ(時給1000~2000円)
- NHKで雑用(1000円)
- 引っ越し(1300円~)
アルバイトの基準は「お金」だった。ただ、体育会気質な職場はどうしても好きになれずに、社会人になったらスマートに働きたいという欲求が芽生えて、外資系コンサルを目指す事に。当然、そんなスペックはなく、面接は惨敗。心身ともにボロボロな状態になったときに、とあるIT会社の社長に拾われて、その会社に入社することに。
他、何が何でも東京で暮らしたかったので、国内メーカーや商社は目指さなかった。
世間知らずな学生乙
社会人時代
社会人時代:23~29歳
20代の転落っぷりが半端ない。
- システム開発の現場にアサインされたが使い物にならず
- システムの保守・運用の現場に配置転換される
- お仕事がルーチン過ぎて、仕事に情熱が持てず
- アフター5とプライベートライフに全てを注ぐ20代
このままだとヤバい!と思って、なぜか「副業」に精を出す。残業手当がない職場で給与が上がる見込みはゼロ。副業で稼ぐことを決意。そんな時「せどり」という副業を知る。BookOffで本を買ってAmazonで転売するお仕事。
はじめはダメダメだったけれど、とあるせどり専門の情報商材のある一言がヒントとなり、一気にブレイクした。せどりでは月10万ぐらい稼いでいたけれど、こっちに夢中になり、本業がボロボロ。
パソコンの修理工場、パソコンの検品・納入などスキルの汎用性がない仕事がメインになり、会社からは使い捨て要因に。
そのうち、全国主張ベースのプロジェクトにアサインされて、心身ともに消耗する。
会社直属の病院から鬱診断されて、自宅待機コースへ。
社会人時代:31歳
会社から干されてニートになる。傷病手当金と失業保険が切れる。このタイミングでアルバイトを始める。コールセンター・システム職についても、試用期間をクリアできず。ハローワークをフラフラする。
2015年4月からニート就労支援施設でパソコンの講師・カウンセラーとして働く。意外と働きやすい職場だった。同時に、1ヶ月でニートの人と30人くらいお話をする機会を頂けて、将来に危機感をいだいた。ニートって他人事じゃないよね?と。
そこから、ニート・引きこもりの人たちに働くよう促した。
これが致命的だった。
事業所から解雇通知を頂く。
理事長の最後の一言!
「私たちのお仕事は就労支援であって就労ではない。
あなたはそこが解っていない。不適切。よって、解雇します!」
退職を仄めかされたり、契約が延長しない事はあったけれど、解雇通知はこの時がはじめて。
ニート就労支援施設を解雇されてニートになる!という笑えない経験をゲットする。
本当にショックだったしお先が真っ暗だった。
3日後、失業保険半年+職業訓練校に行けると知る。
この時にウェブデザイナーを目指す。
派遣社員時代:32歳
職業訓練校やインターンを受けまくるが、面接は通過できず。
12月20日の時点で無職確定で焦って、派遣会社Sに登録をして短期でコールセンターのお仕事をする。その後、某大手F社で経理のお仕事に就く。とりあえず、職は確保された。でも、長くは続けられない。
ウェブデザイナーになるために実績が必要だと判断して、趣味で運営していたディベートブログを使って、「即興ディベートワークショップ」という講座を立ち上げる。
ウェブサイトのみで集客をする。
何気にこれがヒットして、某英会話スクールからWebスキルが認められて、2017年1月に念願のWebデザイナーデビューができた。その時は涙が出るほどうれしかった。時給は500円ぐらい下がったけれど…。
が、職場の雰囲気になじめない。
この時に、自分が超コミュ障だと気づく。自己主張や自我が強く、仕事では「できない」と思うと、色々と焦ってしまうのが原因。結局、その現場は3カ月でジ・エンド。最後に部長から「キミは、熱意もあるし、やる気もある。しかし、スキルが足りない。スキルが足りないならまだいいとして、回りと波長を合わせて、一緒に働きながら学んでいくのは難しい。君の前任者はできていたぞ。よって、キミは彼のようになれない。これ以上、一緒に働くのは厳しい」
ガーン。ぐうの音も出ない。色々とショックだったけれど、初陣を経験させてもらえたので、この会社には感謝しかない。
翌月、ハローワークに行く。求人要件に、Webの経験は少しでOK、英語必須!と書いてあり、これだ!と思って、デジタルサイネージの卸をしている会社の面接を受ける。英語ができることが評価され、即日入社。いきなり海外製品の翻訳業務。その仕事を何とかこなし、次はWeb制作。ランディングページ制作が全然できない。また、変な焦りを感じてテンパる。テンパって何もできない、の繰り返し。
この性格を何とかしなければ…と解決策を探しているうちに、とあるセミナーを発見する。
それが、一般社団法人コーチング心理学協会のエニアグラム心理学コーチングの講座。
エニアグラムを学んで自分の性格が解ればなんとかなるかなと期待を込めて参加。本当に8時間でエニアグラムとコーチング…そして更にポジティブ心理学まで叩き込まれる。けっこう、過酷なカルキュラムだったけれど、なぜか、そのカルキュラムをひとりでこなすことができた。
エニアグラムはエニアグラムで面白かったけれど、その時はコーチングに夢中になった。なぜなら、アプローチや目的こそ違うが、コーチングの技術とディベートの技術がすごく似通っていたから。コーチングとディベートが頭の中でイコールになった。この時はヤバかった。
その後、苫米地英人さんという脳科学者の人がコーチングを教えている理由がスッと入った。
エニアグラムコーチとして活動開始
エニアグラムコーチング心理学の資格を取ったので、エニアグラムコーチとして活動開始。はい、悩みにぶつかる。
コーチングってどうやって集客するの?
インターネットで「コーチ、集客」と調べると、ネットビジネス時代に見たことがあるような人たちがゴロゴロと登場。こういう界隈に関わるとカモにされそうだから、誰かに頼るのはやめた。(それ以前にお金がない)
結局、地味にサイトを作って集客することにした。そんな時に作ったのが、「ひよこ君とフクロウ君のエニアグラム講座」というサイト。エニアグラムのタイプの特徴をすべて書いて、エニアグラムに詳しい人と認められて、エニアグラム講座に集客をして、そこで1on1のコーチングサービスの販売を試みた。
結果、惨敗。
理由、サイトができたばかりでアクセスが集まらない。
仕方ないので、再びディベート講座を開講。こっちはお客様が来る。ディベートサイトにエニアグラムのコンテンツを仕込んで、ワンチャン、エニアグラムの案件も狙ってみた。意外と上手くいった。3時間1万円だったけれど、お客様はついてくれた。
ここら編で、人の話を「聴く」技術をやっと習得できた。
また、自分が最後まで人の話を聴かずに、つい横やりを入れたり、咄嗟に反応する癖はなおっていた(焦ると勃発するが…)。
フリーランス時代
フリーランス:33~34歳
会社員は不向きだと判断してフリーランスの道へ。
はじめの3ヶ月は失業保険をもらいながらプータロー状態。
開業しようか迷っていた。
同年の6月にコーチング心理学協会の担当者様からただの協会から一般社団法人になるのに伴い、協会のホームページを2つ作ってほしいと依頼を受ける。
その条件として開業届を出すことに。この時に開業をした。
「ちょっ!待て!」と思ったけれど、瞬時に「先生は自分の背中を押してくれたんだ!」って事に気づいた。本当に、先生には感謝している。
年に一回はセミナーに参加をしようと決意。
八王子の創業塾に行く
創業塾に行った目的は、創業について学ぶためではなく、完全営業・集客目的。自己紹介で「集客ができるウェブサイトを作ります。」というツカミが成功して、意外と周りからは好反応。あとは、同じ海外育ちのデザイナーの方とランチ∔喫煙所で出会い、仲良くなる。2人で営業活動をしながら、お仕事を獲得するなど創業塾の人には結構助けられた。
Webデザイナーとして活動するが
はい、連戦連敗。営業活動をすればするほどお金がなくなる。Web制作スキルアップと営業活動を同時に行い、ここはどこ?私は誰?状態になる。色々な仲介会社の紹介を受けているうちに、昔お世話になった派遣会社の人から連絡。Web制作のお仕事を希望しています!と伝えたら、その人から別事業部の担当者を紹介されて、その後にWeb制作会社の紹介を受ける。
結果はどうあれ、フリーランスの経験が評価されて内定を頂く。
派遣の案件だったけれど、即日内定を頂き、ステップアップをしたように感じた。(もう正社員では100以上経歴書を送って不採用通知を受けていたから)
フリーランス+副業:34~35歳
2019年3月15日に内定を頂き、翌週から勤務。ある事に気づく。
お金がない!次回の給与日は4月の下旬。定期券すら購入する余裕がない事に気づく。
即金欲しさにディベートの講座とエニアグラムの講座を同時並行でスタート。
- 1日2セミナー
- 参加費アップ
- ディベート:8000円/5時間
- エニアグラム:3000円/2時間
- サイトのみで集客
単価を上げたら逆に人が集まった。エニアグラムはビックリするほど好反応だった。この時は、ひよこ君とフクロウ君のサイトがヒットしていた。やっぱり、ウェブサイトは強い!と思った。
ところが、全財産2000円。会場費も払えない。「お金はちょっと待ってください。セミナーが終わってから必ず払います!」と伝えて、お客様から頂いた8000円の中からお支払いをする。首の皮がつながった、とホッとした。
セミナー終わりにお客様とお食事。派手に飲んで食べて、お財布の中に7万円が残り、一安心。
1000円札の多さに涙が出た。
一方で、平日のお仕事はボロボロ。無茶ぶりされたのか、夢がかなったのかはわからないけれど、上長から「木村さんは、Web制作やコーディングのほうが適性がありますよ」と言われて、制作のお仕事にアサインされる。正直嬉しいし、反面、かなり不安。
絶対に結果を出してやる!と意気込んで挑戦したけれど、結果はボロボロ。納期に間に合わず、その現場は6月付でリリース。この時の影響か、今でもWeb制作業務に関しては無茶ぶりされると「絶対にやってやる」という状態になる。なお、当時できなかったことは今はできるようになった。
スグにはできないけれど、そのうちできる!が座右の銘になる。
その後は、派遣先を2社ほど転々とする。講師業とコーチング業が順調だったのと、前職で残業をしまくったのか、3ヶ月は何とかなる資金が手元にあった。が、平日働いていないと不安だから、スグに就業。Web派遣はスグに決まるから怖い。(本当に人が足りないんだな、と思った)
1日10~20ほどWordPressページを更新する現場だったけれど、自分にはすごく向いていた。
平日はマーケティン部のWeb担当として働き、休日は副業。
- 即興ディベートワークショップ
- 東京エニアグラムワークショップ
を企画開催。平日はコツコツと働き、休日は講師としてはっちゃける。
派遣社員時代:36歳
- コロナの影響でセミナー業がストップ
- リモートワークで1日12~13時間Web制作
- 孤独に耐えられず週2は出社
お仕事はちょい過酷だったけれど、Webスキルがメキメキと上達した。すごく楽しかった。
が、そんな日々ともおさらば。Web制作の部署が地方に移転するとかで派遣切り。
再び、フリーランスデビュー。
フリーランス:37歳
2021年は異業種交流三昧な生活。今後、自分がどこで戦っていけばいいのかわからず、そんな悩みを先輩に相談したら、BNIを紹介される。即入会。その後、ニーズマッチにも入会(同年5月)。
BNI活動期
- 1~3月:2021年1月7日(木)6:00。初のBNI定例会。毎週ノルマがあると知り、唖然。ノルマを達成するために、同じチャプターのコーヒーおばあちゃんのコーヒーを購入してその場しのぎ。某ネットショップ経由で購入するものの、使い勝手が悪すぎる…。入金の連絡や発想の手続きが手間暇だったので、そのコーヒーおばあちゃんを呼び出して、「もうBASEで作りましょう!」事を提案。無料でBASEサイトを作る。前日の23:50までにリファーラルが取れなければ、BASEサイトでコーヒーを購入して難を乗り切った。なお、この時は偶然なのか、BNIに入会した瞬間に、BNIとは関係のないところで個人の売上がブレイクした。BNIの教育担当のとある一言が大きく人生を変えたと信じたい。ここは感謝。
- 4~6月:エニアグラム稼業と個人のWeb制作のお仕事が安定して、BNI活動は諦めモード。2週間に1回のペースで外部リファーラルを出す。本当は、Webデザイナーとして活動したかったけれど、同じチャプターにWebデザイナーがいる。その人は超デキる!仕方なく、他のチャプターのセミナーに参加をして、販路を広げる。WebマーケティングやWeb企画の相談を受けて、お仕事をいくつかいただく。※炎上型のSOS案件が多すぎだった。燃え尽きた。
- 7~9月:BNI活動で手を抜く。結果、書簡を頂く。8月末までに外部リファーラル8件とビジター1名のノルマを達成できなければ除名...。一瞬諦めたけれど、無能キャラとして追い出されるのは心外。ひと暴れする。NMや他チャプターに行き、コーヒーと石鹸を販売する。1on1/1to1をしながら、その場で購入を促す。ネットショップのURLを教えて、その場で購入。ノルマは楽々クリア。おまけに、そのコーヒーおばあちゃんをNMに入れる。その日にみんなの前で紹介して3件のリファーラルをゲット。ビジターは、NMのセミナーで同じテーブルになった人を、後日1on1にお誘いして、その場でYESを頂き達成。この時は、ハンターだった。
- 10~12月:BNI活動の更新間近。活動そのものは過酷ながらも楽しかった。が、お悩み発生。Web制作やWebマーケティングをお仕事にしているのに、Webサイトを活用できてない問題。リアル営業でWeb制作の案件を頂いている自分が許せなかった。そんな悩みを相談したけれど、誰からも理解は得られない(当然)。自分が何をやっているか解らなくなったときに、Webサイトを介してお仕事の相談が来たので、最終的にはWeb集客を選ぶことを決意してBNIを更新しない事に。
BNI活動の振り返り
自分が所属するリージョンやチャプターでは大人しくしていたけれど、実は他リージョンのセミナーによく参加をしていた。右も左もわからず間違ったふりをして北海道から九州まで参加。みんな優しく歓迎してくれてた。知らない土地に遊びに行ったらみんなからよくされてエネルギーがもらえた感があった。ディレクター勢から、バレたら怒られるけれど、時効ってことで(笑)。海外フォーラムにもひとりで参加した。海外のBNI勢はハンター過ぎてビックリした。
ニーズマッチ活動期
- 4~6月:道林さんの紹介で、木村飲み会に参加。その後、旧性・木村の高橋りえさんに出会う。エニアグラムのお話で盛り上がる。後日、1on1へ。1on1でニーズマッチのお誘いを受ける。NMのホームページを見て「このホームページ作り直したい」と思い、和47支部への入会を決意。後日、和47の支部長の白石美穂さんに会う。大学時代の後輩のH田A子に顔と声が瓜二つでビックリした。とりあえず、「本部のホームページの前に和47のホームページを作って、ウェブデザイナーの地位を固めてから入会しよう」と決意して、和47の公式サイトを作る。予想以上に好反応だった。(この後にグダグダになる)
- 7~9月:週3は新宿で働く。その後BNI。NM活動では、なぜかゲストを呼べている。この頃はNM>BNI。8月に美穂さんからクラファンの相談を受ける。和(なごみ)筋膜セラピーのクラファン案件。返事はYES。既にデザイナーはいると聞いた。自分の出番ないだろ!と思いながら、ライターとして参戦。クラファンディレクターの門井さんを夜にたたき起こして朝までライティングとデザイン作成をしている。門井さん、当時は本当にごめん。クラファインでは、200万達成。この時は大盛り上がり。みんなで盛大にパーティーをして、ひと段落つく。翌日は爆睡していた。
- 10~12月:個人の売上は低迷、BNI活動で大忙し、NMでお仕事が来ない、WordPress講座は惨敗…などなど事業が破綻寸前に。また、仕事もやめていた。この時のNM活動の記憶はあまりない。色々な支部に参加をして、NMの教育・研修にも参加をして、準役員の資格も取った。日々の生活に忙殺されて登録できず。売上が20万を切ったときは焦って、エニアグラムのサイトに16タイプを追加させてみた。NMは流されるまま続けて、まずは自分事に集中しようと決意した。なお、売上は回復した(サイトからエニアグラムの案件がたくさん届いた)
ニーズマッチの振り返り
自分の適性に気づいた。たぶん、自分はセミナー講師向きではない。一体複数のセミナーよりも1on1に向いている。また、コミュニティのリーダーを目指すよりも、リーダーの左腕タイプ。美穂さんのように頭は張れないし、りえさんや木藤さんのように美穂さんを上手にサポートできない。また、菊地さんやきほりんのように任された役割をこなすのも苦手。だから、Web・IT・ライティング、ディベート、性格診断など、他のNMのメンバーができない事を極めて、ニーズマッチ内でNo1になれるジャンルを量産しようと決意。
2021年の振り返り
1年を通してわかったことは、ビジネス交流会はやっぱり楽しい。売上での売上比率は全体の20%だったけれど、みんなでワチャワチャと何かをやったりすることが楽しいからづづけられた。時間的やキャパ的な理由でBNIの更新はしなかったけれど、1年を通してやって色々と働き方が見えてきた1年だった。また、やっぱりビジネス交流会が好きで、何らかの貢献をしたいから、支部サイト制作を専門にしてニーズマッチ1本で活動をしようと決意した今日この頃。
あと、NMの本サイトを作り直したい計画だけれど、いったんタンマ。誰かから代表の手嶋さんがひとりで運営・更新していると聞いたから。制作者が愛情をもって育てきたサイトを外野が口やら手を出すのは野暮。人のサイトに口を出す暇があるなら、自分のサイトを育てます。ザ・ファーマーマインド。
フリーランス:37歳
ビジネス交流会は楽しい!ニーズマッチ1本に絞る!と決意をしたものの、なぜか他のコミュニティーに所属している自分がいる。たぶん、合計で5つくらい。もう、この世界の住人です。
ただ、
- 即興ディベート×アーギュメント
- エニアグラム(16タイプ、ストレングスファインダー)
- WordPressサイト×支部サイト制作
この3つを武器に、どこに行っても圧巻的な存在になろうと決意した今日この頃。これまで、自分の事業の核をディベートにしようか、性格タイプ論にしようか、WordPressにしようか迷っていたけれど、この3つでお声がけを頂きまくるので、自分を拾ってくれた人たちに自分の「できる」を提供して貢献していこうと思った2022年度この頃。
これからの事
正直、あまり考えていません。
ナントカも歩けば棒に当たる!のように、誰かに合えばお仕事が発生する!ぐらいの考えで生きています。
過去から現在の生い立ちを振り返ると、「今できていること=昔は恥ずかしいくらいできなかった」という事ですね。
- 英語・英会話
- ディベート
- Web制作・ITのお仕事
- コーチング/カウンセリング
- 面接や営業活動
昔は全然できませんでした。30歳になるまでは、人様に公開できるような文章すら書けませんでした。
自分でいうのも恥ずかしいですが、ニーズマッチでは「多芸多才の人」として承認を受けています。本当に感謝なのですが、実はそのほとんどが昔できずに悩んでいたことばかりです。一昔前に「悩みはお金に変わる」なんて本を手に取りましたが、本当にその通りだと思います。
で、いまできなくて悩んでいることが3つあります。たぶん、この3つも、時間がたてばできるようになり、マネタイズするのだろうと思います。
人生これの繰り返し。
まとめ:「できる」を「つくる」